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「時の輪郭を漂う」インタビュー② 川を漂う

プロフィール

谷口安利(たにぐち・やすとし)
明治の末期に横浜市・初音町で創業した谷口商店の4代目。谷口商店は、この地で落花生や豆菓子の専門店として約100年にわたって変わらすに事業を営んできた。初黄・日ノ出町環境浄化推進協議会の3代目会長を2019年5月まで務め、その後も地域を見守っている。

インタビュー動画

インタビュー書き起こし

金子未弥(以下、金子):ここに広げた『横浜実測図』という地図は、だいたい140年前くらいに作られたもので、現物が中区の区役所にあります。この地図をきっかけに140年前のことを想像するプロジェクトを行なっています。今回、4代にわたって横浜で暮らしてきた谷口さんに古い横浜のお話を伺いたいなと思っています。この地図を見ながら、色々とお話を聞ければ嬉しいです。

谷口安利(以下、谷口):今回は川を中心に置いてお話してみようと思いますがいかがですか?

金子:すごくいいです、お願いします。

谷口:昔は道路が整備されていなかったで、商業の運搬の交通路として川があったわけです。この辺は横浜の中心地なので、市営電車が走っていたし、桜木町が近いでしょ。だから人の動きは多かったし、水運もある賑やかな場所でした。

川のことでいうと、もっと川幅が狭かった。上から川が流れてきて、ろくに整備をしないから、川の真ん中に川洲があるくらいだった。

金子:(地図の大岡川周辺を指して)ということはこの辺も周りは全部草が中心なんでしょか?

谷口:そうだと思う。一番印象に残ったのは、第二次大戦で空襲にあって、たくさんの人が川に飛び込んで亡くなったんですね。私の生まれて育った時の印象としてはそういうことが鮮明に残っている。

谷口:それと、船に乗る人にとっては、船は運搬のためのものでもあったし、宿や家でもあった。船に貨物を乗せる部分と生活する部分があって、そこに暮らしていたわけです。船に乗っている人は自分の家ってほぼないわけですから。そういう人たちとは、ずっと船にいるからなかなか交流はないわけです。だけど陸で生活する私たちはそうした人たちの往来をずっと見ているから、そういうのは他所にない景観だと思っていました。

金子:河原からそういう人たちを見ていて、話をしたりするんですか?

谷口:やっぱり生活感が違うから、あんまり会話はなかったですね。ここに暮らしているといっても、家があるわけじゃないから。(空襲によりこの街に住むことが困難になり、戦後当時は磯子で生活したことを後に語っている)

水上学校がここからもう本牧の方にあって、船で生活している人たちの子どもが通っていたわけです。そういう生活感を我々は見ているわけ。

戦争直後、この辺の家が全部燃えてしまって、大岡川の右岸側に飛行場ができたんです。飛行場といっても、連絡船とかの小さい飛行機が離着陸するような規模のものです。そこは柵で区切られていて、柵越しに見える向こう側の景色は何にもなくて、つまり機密の場所なので絶対に入れなかった。だから想像もできない。

今みたいに川に親しみを持てるようになったのは、我々が大人になってからのことで、そのくらいでやっとこの川で遊べるかな、というような感じなりました。というのも、最初は運搬の人たちがたくさん使っていたのが、陸上の交通が盛んになって船がいらなくなってきちゃったというのが先にあります。

川って浚渫(しゅんせつ)っていうのをやらなきゃいけないんですね。川が流れて土砂が溜まって、そうすると川が浅くなってしまうんで、定期的に掘り返さなくちゃいけない。荷物を乗せる船が進めなくなっては困るから。

明治の川幅だったら今の3〜4分の1くらいの幅じゃないかな。長さは結果的に上大岡の方へ作ったから距離としては長くなって、それなりの大きさの船が通れるようになった。遊覧船くらいの大きさの、荷物を運ぶための船ですね。船倉を下に入れて上を板で蓋をした、そんな船がずっと川に並んでた。戦後はそんな景色だったから、それなりの変化はあったわけです。

金子:その船がこの川を通っていたんですか?

谷口:そうそう。そして、ちゃんと栓がついた湧水(日の出湧水)があるでしょ。あれは船の人のために山から引っ張ってきたものなんですね。一般の家庭の水道とは違って、あれは仕事で船に乗る人たちがそこで体を洗ったりするためのもので。

あとは京浜急行もこんなに立派じゃなかった。京浜急行は幅の広い広軌だから私鉄としてはスピードを出す路線だった。ましては、この向こう側伊勢佐木町は当時としては滅多にない立派な商店街だったわけ。伊勢ブラ、伊勢ブラ賞歌っていうようなものまであって。そういう景色も見ていましたね。

金子:伊勢佐木町については、生まれる前からそういう場所だったんですか?

谷口:親の話を聞く限りではそうですね。ただ、戦前と戦後とでは全く違う。米軍がいっぱいいたし。そういう意味ではいろんな場面を見てきたなという気がしていますね。

谷口:(『横浜実測図』を見ながら)今の川筋がどうなっているのか検討がつかないや。

金子:川の流れはあまり変わらないので、そこから位置関係はわかるかなと思いますよ。さっき行っていた伊勢佐木モールは…

谷口:吉田川がこう走っているから、ここが今の伊勢佐木モールかな。この辺って都会にしては川が多い場所なんだよね。

金子:先程戦前と戦後では全く違うという話がありましたが、お父さんから聞いていた戦前のお話はありますか?

谷口:父からはあんまり聞いてないんだよね。横浜で仕事をしていて、家に帰ってくるという印象がない。私たちはこの近辺に住んでいたけど、戦争で家が燃えてしまって、戦後は磯子に住んでたのよ。父はこちらへ仕事をしに来なければいけないので、接する時間が少なかったというのはありますね。父は店へ帰っちゃうっていう感覚で。だからどっちかっていうとおじいちゃんと母と会話する方が多かった。

金子:戦争で家がなくなってしまう前までは、おじいちゃんたちもずっとこっちに住んでいたんですか?

谷口:そうです。私は小学校までは磯子に住んでいて、すぐそばが磯子の海岸や海だから漁師がいっぱいいたんだよ。いい浅草海苔が取れる場所だった。また、屏風浦の近くには天皇陛下の離宮があって。今はプリンスホテルになっちゃったけど。だからいい場所なの、風光明媚な。生い立ちはそんな、幸いな場所にいましたね。

金子:じゃあ、黄金町に来るときはちょっと都会に引っ越すような気持ちもあったんですか?

谷口:いや、都会って程では。ただね、私たちが子どもの頃は食糧不足だから、父の店へ来るとなんでも食べられるという楽しみはすごくあった。それと海のすぐ脇や、通っていた小学校の横を走る市電でここまでくるのが楽しみだった。父の店の従業員で出兵した人が何人かいたけど、幸いみんな帰ってきてくれたから、嫌な思い出はなかったね。住んでいる磯子も宮様が近くにいるようなところでもあったから、危険は少なくて割と良い環境だった。空も海も全部揃っているし。海があるっていうのはすごく気持ちがいいもんだったね。

金子:こっちの海と磯子の海とではきっと雰囲気が違いますよね?

谷口:そう、違う違う。

金子:この辺りの海はそんなに気分がいい場所ではなかった?

谷口:いやいや、外国と繋がっているという部分で憧れがあってよく見に行っていましたよ。そういう船関係の商売はうちの店の近くにもいくつかあって、船具屋さんって船関係の道具を扱うお店が何軒かあったんですよ。特殊なロープとかを扱うお店です。

あと商売の取引先としては、新宿に二幸商事という船食を扱う部門があって。

金子:料理屋さんってことですか?

谷口:いやいや、船にお米を運ぶとか。船に運べる食料品とかを扱っている会社ですね。新宿に会社があって、横浜に支店があって、うちはそことも取引があった。それは船関係として他所にないような取引先だとは思ってました。

金子:そういうのを見て外国と繋がっているな、と実感していたんですね。

谷口:そうですね。それから横浜は外国人の兵隊もたくさんいたんですよ。若葉町とかそっちの方は宿舎がいっぱいあって、横浜港や厚木、横須賀にもいっぱいいたわけ。ある意味外国的な要素っていうのは他所より強かったと思うんだよね。

それと、坂を登ったところに東小学校ってあるでしょ。まだ塞ぎきってないけどあそこに防空壕があって、私はそこに逃げ込んで助かったわけ。今でも覚えてるけど、爆弾が落ちると熱風が入ってきて、そんなことがありました。そうした経験をしているもんだから、野毛山は私にとって昔は印象がよくない場所でもあったんですよ。だけど今では綺麗になって、動物園まであっていい場所だなと思ってるよ。

金子:野毛山の印象がよくなかっていうのは防空壕があったからというのが一番の理由でしょうか?

谷口:戦争で逃げて結構怖い思いをしたんだよね、そういう昔の思い出が残っているもんだから。ただ、今はもう毎日散歩に行っています。都会であれだけ真っ平らなところも珍しいですから。それで川と山があって、港もあるし、自分が育った場所っていうのはいつまで経っても懐かしい場所になった。方向がわかる場所は安心感がある。いいところがあると、自分の中で自慢になるじゃないですか。

金子:例えばどんな?

谷口:この街で商売をやっていたのと、戦後は磯子で住んでいたいものだから、故郷が二つあるみたいなところかな。磯子には小さい時に付き合っていた人たちがいて、こっちには大きくなって商売を手伝いながら近隣と付き合って、皆さんと話ができる環境がある。とても感謝しています。まちづくりの活動に参加したことも、少し絵を描いたりしていたことも、年を取った今でもいろんな人と関わることができるっていういい結果に繋がっているんだよね、話を聞いてもらえて得だなあと思っています。

金子:私たちも、話してくれる人がいるっていうのは得なことだなあと思ってるんですよ。今日はいい自慢話をたくさん聞かせてくださってありがとうございました。

谷口:はい、こちらこそありがとうございました。

インタビュー実施日|2022年3月8日(火)
インタビュイー|谷口安利
インタビュアー|金子未弥
撮影|スタジオ0033

黄金町エリアマネジメントセンター

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