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インタビュー① 地図を漂う

プロフィール

武田周一郎(たけだ・しゅういちろう)
神奈川県立歴史博物館学芸員(現代史担当)。歴史地理学を専攻し、横浜実測図を作った岩橋教章と、その息子の岩橋章山といった地図印刷技術者の動向などについて調査している。

インタビュー動画

インタビュー書き起こし

金子未弥(以下、金子):今ここにある『横浜実測図』を今回のプロジェクトの出発点として考えていて、プロジェクトに参加する人に、ここから140年前の人に対して自由に想像してもらって、140年前の誰かに宛てた手紙を書いてくださいということを投げかけようとしています。

武田さんは実測図を作成した岩橋を研究されているということもありますし、地図の中に描かれていたり、読み取ることはできないけれど想像できる部分であったり、「こういう風景だったんじゃないか」とか「こんな人がいたんじゃないか」とか、岩橋さんがどういう人物だったのかといったお話についてお伺いさせていただきたいです。よろしくお願いします。

武田周一郎(以下、武田):ありがとうございます。よろしくお願いいたします。神奈川県立歴史博物館の武田と申します。今回のお話を伺って、地図を出発点として、140年という幅の時間や人間の活動を見出そうとされているというのが、私としては非常に興味深いと思いました。地図そのものには人間は描かれていませんが、地図を作った人がいますし、その地図を使った人がいるし、現在、実際に私たちが地図を見ていて、過去のこの地域に住んでいた人もいて、現在も住んでいる人がいて、未来にも同じようにしてあるのが、人間の存在というのは大事なんだなと思います。

私はその中でも、この地図を作った人に注目しています。岩橋教章(いわはし・のりあき)という人がこの地図を作っています。一人で作ったわけではないのですが、銅版印刷で作られていて、銅版に彫刻してそれを紙の上に印刷するんですけれども、そういうことをやっていた人が140年前にいました。岩橋だけではなくて、周りにいる人たちを含めて、これだけ細かいものをどうやって作り出したのかなと思いますし、金子さんも制作をされているということでしたので、作り手の気持ちがお分かりになるのかなと思っています。

金子:この地図は「実測図」とあるのですが、どういうふうに地図が作られたのでしょうか?実際の場所を測って作っているっていうことなんですか?

武田:この地図は、左上に名前が『横浜実測図』と書いてあるんですけれども、測量しているんですね。どの辺から測るかというと、例えば、この辺に、緯度経度とか何度何分何秒とか、そういうことが書かれています。それから、向こうのほうを見ると、いつから測量を始めてというようなことが書かれています。確か明治7年でしたかね。途中ちょっと中断を挟んで、最終的に刷り上がったのが明治14年だったと思いますけれども、足掛け数年かけて、測量から印刷まで含めてやったということです。見ていくと、いろいろ面白いところが含まれています。

※『横浜実測図』の測量が開始された年について、インタビュー中では明治9年と言っているが、正しくは明治7年。

金子:例えば?

武田:例えば、細かいところを見ても面白いんですけれども、ちょっと退いて見るというのが、ひとつ面白いのかなと思います。ちょっと退いて見るというのと、岩橋もそうなんですけれども、この当時の地図は特に、絵画の技術を持っている人たちがこの地図を作っていたんです。明治の初めの頃は。

武田:この辺に細かく曲線がうねうねと描かれていると思うんですけれども、横浜のこの辺りの大地は結構ぼこぼこしていまして、それを表す「ケバ線」といいます。今でいう等高線ですね。山手の辺りなんかそうですが、等高線を線ではなくて、楔形の記号を並べて、それを傾斜の角度に合わせて並べていくんですね。そうすると、ちょっと退いたときに、高低差が目で見てわかるように、そんなふうな工夫されているんですね。こちらは山手なので高いところです。こちらのほうは低いところです。関内のあたりもそうですけれども、このあたりが崖になっている。この辺もそうですね。それを絵として、絵というか図として、表しているんですね。

武田:全体像と、もうひとつは細かさですね。本当に細かいんですね。このあたりは吉田新田のあたりですね。あのあたりは田んぼとか畑ですね、まだまだ街になっていない頃ですね。凡例が左上に、この記号は田んぼとか、この記号は畑とかということが書かれています。小さな丸をまとめたのが何とかですね、そういったことを記号で表しています。目で見て分かりやすいということを一番に考えて作られたものなんだと思います。

金子:さきほどの崖の楔形の話なんですけれども、それは岩橋さんたちチームみたいな方々が、実際にそこを歩いてその傾斜を測ったんですか?

武田:測量するのは内務省地理局という組織の中にいまして、その人たちが実際に測りました。崖の高さとかはおそらく測っていないと思うんですけれども、平面的な距離とか、その上で実際に見てここをこういうふうに表現しようとか、そんなふうなことを加えていって。地面の形を写しとってきた人たちのデータを元に図面に起こして、それを彫ったり、あるいは印刷したりするのが岩橋といった人たちだったんです。実は、岩橋も実際に測量はしていまして、この地図が作られる少し前なんですけれども、岩橋は海の測量をしていて、そういった技術自体はあったんですね。両方できた人で、当時の日本でいうと抜群に地図作りが上手い人だったという評価があるみたいです。

金子:私が興味を持ったのが絵としての表現で、ここは傾斜が厳しいから崖が厳しい表現にしているというのがとても面白いと思ったんですが、測量で実際に場所を見てきた経験が表現としてそこに反映されているということなんですか?

武田:実は、この地図はかなり精密に考えられたもので、このくらいの角度の時にはこのくらいに並べるとか、そういうルールがあるんですね。それに則って、この辺なんかそうなんですけれども、今の根岸のあたりですね、海に面して急な崖がバーって立ち上がっているんですが、それはかなり楔形の目が詰まっていて、キュッと短い帯で入っています。そういったように、これくらいの長さでとか角度でというようなルールがあるんですね。地図作りは一定のルールの元で表されます。

金子:地形が模様として、今地図として見られるっていうことですよね。

武田:はい、そうですね。面白いのは、岩橋は地上のシンケイを、地上の真形を地図の上に写しとるとか表現するということを、この時代に、この内務省地理局という組織で実現しようとして、実際にさまざまな地図記号を使って表そうとした。「シンケイ」というのは、シンという字は真実の「真」、ケイは「形」ですね。地図記号というのが、先ほど申しましたようなルールですね。この崖はこう表現するとか、田んぼはこう表現するとか、そのルールを作って、決まり事を作って、それに則って、地上の真形を、真の形ですね、それを紙の上に表現しようとした。そういう人たちなんですね。

この当時の地図は、今皆さんがスマホで使ったりとかそんなふうにしてたくさん誰でもが手元にあるという性質のものではないのですが、例えば横浜のような大都市の神戸の地図も作っています。140年前に、そういった都市の形を作る、紙の上に表現しようとした人たちなんですね。今だったら空中写真とか衛星画像とかありますけれども、そうじゃないかたちで、技術で、地上の真形を表そうとした人たちなんですね。翻って考えると、現在も同じようにして地上の真形を理解しようとか、作業としては同じなのかなと思います。

金子:衛星写真を見るのとこの地図を見るので違うことは、制作をした人がいる。そこでリアリティっていうか、それがすごく違うなって思うんですけれども、武田さんがこの地図をご覧になったときに、当時の生活感がすごく分かるなとか、そういう場所はあったりしますか?

武田:そうですね、それは非常に面白いことだと思います。地図の上には人間そのものは書かれていないわけですから、実際には生活感を見ることはできないですが、例えば、今皆さんがいらっしゃる神奈川県立歴史博物館は馬車道にあるんですけれども、馬車道のあたりや関内のあたりは、区画が細かく格子状になっていて、道路が直線で引かれていまして、その一画にこの土地が、現在は5-60なんですけれども、番地が振られています。地図を見ていくとですね、番地が振られているんですね。何番何丁目何番地といったように細かく。見るだけですと番地は番号ですけれども、その番号の上に生きていた人がいたんですね。そういうところでしょうか。あとは、この地図には田んぼや畑、いろんな鉄道とか構造物、根岸の競馬場もありますけれども、そういった人間が作ったものが、明治14年頃ですと、現在ほどは、そこまでは開発されきっていない、淡いところが見てとれるということが、人間の活動が見えるところかなと思います。こんな細かい数字を彫れるのかと思うくらいの細かい文字がここに書かれています。この地図は明治14年ですが、そのあとで、横浜の街は関東大震災、横浜大空襲や戦争で、特にこの関内のあたりは焼け野原になってしまいます。140年の中にも断絶があって、現在に至っている。そういうところの重ね合わせが見られるのが面白いのかなと思います。

金子:140年前について、他にも何かありますか?

武田:こうやって見ると、横浜は海の街、水の街なんだなっていうのが、みなとみらいもそうですし、横浜駅のほうもこの後埋め立てが進んでいきますし、こちら側のほうも根岸のあたりや本牧でも埋立が進んで土地が広がっていくわけですけれども、この地図に描かれているその前の状態では、海は白くて何も描かれていないことが今と見比べてよく分かります。陸地だけではなくて海のほうも含めて、大きな移り変わりが見てとれます。ここに描かれていないことを私たちは知っていて、そういったものを140年前の当時は、どんなふうになるか想像して生きていたわけではないと思いますが、そういったところが面白いと思いますし、またこの後、現在から140年後に、この地図が作られたのと前後同じ時間幅で、どのくらい変わるのでしょうか。この地図の頃から今までこれだけ変化した。それをパタっと折り返してどのくらい変化するんだろうなと思います。あまり変化しないのかもしれないですし、そういった想像は面白いと思います。骨格は分かりますけれども、じゃあこの先に海のほうはどうなるかなとか、想像を働かすにあたって、細かく描かれているところももちろんそうですし、周りに広がっている白いところ、海ですね、そこも面白いかなと思います。

金子:今、武田さんに言われて気づいたんですが、確かに海のところには何も描かれていない。地図として描く必要がないということもあると思うんですけれども、逆に、人が知っている街の部分に対して、これだけ執着心を持って密に描いているって思ってこの地図を見ると、人間てすごいなって、改めて思いました。

武田:執着心ていうのは大事だと思います。(金子の過去作品記録集を手に)金子さんのお仕事を拝見しても、執着心というのとは違うと思うんですけれども、これだけ細かいところに密に詰め込んでいくというか、この作業というのは非常に人間のパワーを感じますよね。こういうことをやっていた人たちがいるんだなと。描かれている街中だけではなくて、この地図の外側の枠とか、題名のところも非常に装飾性が豊かですよね。題字やそのあたりに、絵の要素、現在の言葉で言うと美術的な要素やそういった表現力を感じます。あとは、横浜だけではなくて、他の地域でも実測図が作られましたが、大阪とか神戸とか、それはそれで装飾が豊かです。横浜だけじゃなくて、その地図も同じようにして岩橋たちが作っているんですね。現在では、地図と美術っていうのは分けて考えられると思いますが、この時期は、まだまだそういったところが一緒になっていますし、また、金子さんがやっていらっしゃることも見ると、あぁ繋がっているんだなって思いました。地図を描いているというか、作品を作ってらっしゃるわけで、そのあたりが一緒になっているというのが、140年前と一緒だと思います。

金子:個人的に気になったんですが、先ほど『横浜実測図』の装飾の話が出ましたが、大阪や別の地域の地図もあって、それぞれがその土地らしい装飾になっているんですか?

武田:大阪だからこんな感じという地域性がそこにあるかどうか、私もよく分からないんですけれども、横浜とは少し違う感じです。大阪ですと、お花のモチーフが題字のところに描かれています。通り一遍に同じように作られたというわけではなくて、工夫をしているみたいなんですね。もちろん、図案を考えることは岩橋だけではなくチームで行っているんですが、大阪だからこんな感じかなというのは考えたかもしれません。

金子:それも見たくなりました。ありがとうございました。

武田:ありがとうございました。

インタビュー実施日|2022年3月8日(火)
インタビュイー|武田周一郎
インタビュアー|金子未弥
映像制作|スタジオ0033

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