コンセプト

企画趣旨

東アジア・東南アジアの6都市と日本の東北エリア、そして横浜・黄金町で活動しているアーティストら、総勢22組が参加する展覧会プログラムを2023年秋に開催します。本プログラムは、地方都市(ローカルエリア)で活動すること、そしてそれらに共通するコミュニティの課題とは何かについて、思いを巡らせたことが発端となっています。多国籍な街というユニークな特徴をもつ黄金町が、多都市・多国籍を結ぶハブとしての役割をもち、都市と都市とが結ばれ、お互いの今後のネットワークづくりのための貢献として、また今後の文化交流のあり方の方向性を示すものにしたいと考えています。これは将来の横浜の姿、さらに将来の日本の姿について考えていく上で重要な課題となっていくものと思います。

コンセプト

1. コンセプトに替えて、山野真悟と小川希の東北旅行記

今年2023年の4月、私と小川希君は過酷で楽しい旅に出た。それは記録的な短時間で東北を回るという旅である。彼が行き先とスケジュールを組んでくれた。私はその流れに身を任せるだけで、数日間が過ぎた。当然ながら高齢の私はボロボロになって帰ってきたが、でも旅の途中、知らないことばかりに出会って、とても楽しい時間を過ごした。旅とはやはり実際に行くものだ。小川君にはいずれこの旅について何らかの報告の機会を持ってほしいと思っている。行く先々で見た、それぞれの特色を持った取り組みと、初めて出会う多くの若いアーティストたち、もちろん、私はそれらのことをほとんど知らずに過ごしてきた。これはおそらく、コロナの期間があったから、というようなことではなく、それ以前から私はあまり見ようとしていなかったのだと思う。2011年の震災の直後から、私は石巻に通い始め、街中に小さなレジデンスの施設を作った。その活動は2年ほどで終わり、いつのまにか私は行く機会を失っていた。今回およそ10年ぶりで石巻を再訪したが、新しい活動が始まり、新しい拠点もでき、以前とはかなり違う様相を呈していた。しかし、10年前に出会ったアーティストが今でも粘り強く活動しているという、うれしい再会もあった。そして、私たちは石巻から、その後、岩手、青森、秋田、山形、と回った。

というわけで、今回の「秋のバザール」のテーマの一部はこのときの体験に関係している。

2. それにしても、この展覧会は何重ものタイトルを持っている。

まず「黄金町バザール」に代わるものとして「秋のバザール」という呼び方をする。私たちはこの枠組みで、私たちの活動と、そして黄金町のアーティストたち、および黄金町エリアと呼ばれる街自体を紹介したい。秋の快適な季節に街歩きを楽しんでいただくための仕組みを作ることを考えている。もちろん黄金町だけでなく、その周辺もおもしろくて変化に富んだエリアが広がっているので、来訪の機会に、街歩きの範囲を広げていただきたい。

3.そして私たちは東アジア、東南アジアをはじめとして、諸外国との文化的国際交流を長年にわたって続けてきた。

今回のタイトルのインターナショナルにそれが反映されているが、私たちのこの活動には二つの遠因または、理由がある。ひとつは黄金町を含むこのエリア全体が、多国籍であり、多国籍が共存する文化の只中にある、ということ、そしてこのような状況は今後もっと広い範囲において、先駆的な意味 を持つだろうということ、もう一つはもっと単純な話で、私自身がたまたま福岡からやってきたということ、福岡では早くからアジアの現代アートの紹介が進み、その機会に私も多くのアジアのアーティストたちと出会い、彼らと一緒に仕事をしてきた。その経験が私のアートに対する考え方に根本的な影響を与えた。

ということで、私は今も彼らとともに仕事をしている。

4. そしてこれは昨年度から始めた「アーティスト・ネットワーク」の続編でもある。

これはもともと私が1980年代に進めていたプロジェクトで、地方都市のアーティストが集まって、場所を移動しながら展覧会を開くというもので、当然その頃は、紙と電話と、直接の出会いの積み重ねでしか実現できないことだった。この展覧会は時々タイトルを変えながら、九州各地、関西、東京、そして最後に福岡で開催して終了した。私はこれを一人でやっていたわけではなく、ときには川俣正や正木基と各地に出向き、彼らの協力を得て、内容を組み立てた。「アーティスト・ネットワーク」というタイトルは私ではなく、正木基が名付け親だそうだ。東京に持って行くときにこの名前になったのだから、多分そうだろう。

1980年代の後半から1990年代にかけて名古屋で「裸眼」という冊子が出版されていた。これには毎号net workというページがあって、複数の地方都市の動向が掲載されていた。私も最初の号から九州の情報について書かせていただいたが、それは私たちの展覧会同様、情報が一方通行だった時代の地方からのひそかな抵抗であり、また貴重な情報源でもあった。

そんな時代からかれこれ40年近くを経過した今、事態は改善したのだろうか、と、ふと思う。

私はそれが現在の自分のことだとすれば、あまり改善したとは思えない。

例えばアジアのアーティストや拠点との交流を続けて、これはコロナの期間と関係のある話だが、突然すべてのやりとりがリモートになったとき、私は多くのことが見えなくなったと感じ、関係を維持していくことの難しさを感じた。

昨年の後半から海外とのやりとりがようやくリアルに戻り始め、また改めて関係の作り直しを進めていく必要を感じている。

5. 再び旅の話

昨年2022年、私と小川希君は私の希望で福岡出張を行った。私は彼に昔やっていたアーティスト・ネットワークの話をし、それを現在の状況の中で再現したら、どのような意味を持つかを実験したいというようなことを伝えた。私の行動範囲はたいしたことはなかったが、小川君はほとんど別行動で、積極的に福岡と北九州を動き回り、リサーチしていた。その結果が年度末に行った、二部構成のアーティスト・ネットワーク福岡編である。第一部は私が声をかけた高齢者(というか、私よりずっと若いが)編、第二部若い人編で、どちらもおもしろかった、と思っている。国内の地方都市のアートを紹介する、という試みは、実はこれまでの黄金町ではなかった。

そして、次は東北へ行こう、ということになった。今度は私にもほとんど未知の場所である。1980年代、北海道との行き来はあったが、なぜかそのときは東北との関係は生まれなかった。そして今回の旅で分かったのは、私がほぼ何も知らなかったということである。長年の間、そういう努力をしていなかったということだ。

回りくどい話になるが、1990年代に入って、私のネットワーク思考は海外の方に向かうようになった。またいつのまにか、高名なアーティストと仕事をする機会も増えていた。それで、国内の地方都市を結ぶというアーティスト・ネットワークの道を私は一度見失っている。

で、私は小川君が運転する車の後部座席で、居眠りをしながら、秋の展覧会のタイトルを考えていた。で、思いついたのが「誰も知らないアーティスト」たち。私はこれを手帳にメモをして、翌日のホテルの朝食の時だったか、小川君に伝えた。意外なことに彼はあまり反対しなかった。「こんなタイトルは嫌だと言って参加しないアーティストが出るかもしれないね」と私は言いながらも、これでいいのでは、と思った。私はこのタイトルについてうまく説明できないかもしれない。でもそれは小川君に任せよう。私にとってはただこのタイトルは「視点を移動させよう」という意味を帯びていると思い、そのような呼びかけだと思っている。

6. 以上のような理由で、今回の展覧会は何通りもタイトルを持つややこしいものになってしまった。

黄金町、横浜、およびその近隣のアーティストたちと、海外のアーティスト、そして地方都市のアーティストが出会い、交流するネット・ワーク復活の機会としたい。これが旅の結果、私たちが思いついた展覧会である。

この展覧会がどのような見え方をするか、そして何らかの形で参加して下さったみなさんそれぞれが、交流の一部を持ち帰り、今後の関係の継続につながっていけばいいと考えている。これが黄金町、あるいは横浜のこれからのもうひとつの役割かもしれない。

ぜひ「誰も知らないアーティスト」と出会ってください。

山野真悟